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2016.12.22

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コラム

「どっちでもいいじゃん、人によるよ、個人の自由だよ」の持つ暴力性

子供の頃の苦い思い出がある。

 

俺と友人Aで、じゃがりこのチーズ味とサラダ味のどっちが美味いかを「バカ」「アホ」といったワードを交えつつ主張し合っていた。

 

これはつまりただのプロレスで、チーズ味かサラダ味のどちらが美味いか、科学的な答えは当然どうでもよかった。

その尖った言葉の応酬を通じて友情を楽しむっていうほんとうに子供らしく純粋で美しい遊びをしていただけだった。誰も悪くなかった。旧約聖書ならまだアダムとイブが禁断の果実を食う前だった。

 

しかしだ。

 

すまし面のふわふわした男、友人Bがどこからか現れた。

 

Bは俺らの文脈を理解する努力も一切せずに割り入ってきて、「そんなことどっちでもいいじゃん、人によるよ」と言い放った。

 

 

俺は言葉を失った。

「どっちでもいい」ならなぜ俺らには喋る口があるのか。

「どっちでもいい」は会話を拒否している。一方的なケリをつけようとするその態度は傲慢ではないのか。

「どっちでもいい」という言葉はもはや自分自身、人間自身を軽蔑している。そんなんでいいのか。

 

だが、Bに何も言い返せなかった。

 

そんなBは、テストで良い点取ったり、どんな球技もこなしたり、女からモテた。

俺とAはわけも分からず握りこぶしだった。

俺らはプロレスをしなくなった。

少なくともじゃがりこは悪くなかった。

 

やがて、チーズとサラダの間にあった俺とAの友情はどこかに消えてしまった。

 

エデンから追放された瞬間だった。

Bが悪だったのか、神だったのかは分からない。

 

今でも、コンビニやスーパーのお菓子ゾーンを通ると、たまに思い出す。

苦い思い出だ。

結局、チーズもサラダも苦い味になってしまった。

 

「どっちでもいいじゃん」というその言葉は、寛容的でありマザーテレサ的でありながら、永遠の変化をもたらす暴力にもなるんだということを、子供ながらに知った。

 

そんな痛みから解放されるべく、俺はここで叫ぼうと思う。

 

「じゃがりこチーズは至高。サラダは文字に釣られて栄養あると勘違いしたバカ。」

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