SHARE

  • Facebook

2016.10.18

by

コラム

村上龍「愛と幻想のファシズム」の”幻のエルク”とは何か

「すべては狩猟なのだ」という独自の思想を持ったトウジは弱肉強食の狩猟社会に時代を戻すために日本そして世界に立ち向かう。

そんなトウジは心の中にいる「幻のエルク」を追い続けていた。目指す道の果てにいるであろう巨大で美しい「幻のエルク」を撃ち倒すことで、トウジはそれと同化することが出来るとずっと信じている。

その「幻のエルク」とは、つまり何のことか?という考察。

※ここから先はネタバレです。

愛と幻想のファシズム(上) (講談社文庫)

幻のエルクとは

まず事実として、昔ゼロと釣りをした時の思い出のキングサーモン。これが「幻のエルク」の正体だった。

情緒不安定なダメ人間で、狩猟社にとってお荷物でしかなかったゼロを粛清できずにいたトウジは、ゼロに対し「説明できない何かを持っている」というモヤモヤがあった。

トウジは、弱いゼロを見て安心していた。ゼロはトウジの「弱い部分のすべて」を担っていた。そしてゼロも、いくら自分がダメ人間でもトウジという「理想的な強者」がいたからそれで良かった。

つまり、トウジが世界を掌握し理想郷を築き上げるためには、ゼロが究極的に弱い人間になる必要があった。

だが、ゼロが心を新たに入れ替えて狩猟社の広報としてめきめき仕事を成功させ周囲から尊敬されるようになると、トウジとゼロの妙な依存関係はバランスを崩していく。終盤にはトウジはこれまで感じることのなかった感傷に心を締め付けることになり困惑する。そこで、ゼロを殺すことが頭にかすめる。

そしてゼロのここ一番の大仕事を成功させたとき、トウジはゼロを殺してしまう。

ゼロが死んだ後、幻のエルクの正体がキングサーモンであり、ゼロだったと知る(物語はそこで終わる)。

 

トウジがずっと追い求めていたものは、トウジにとって欠落しているもので、その正体は人間が持ちうる「弱さ」だった。

完全無欠の強さを持つトウジは「強い者だけが生きる世界」を理想としながら、無意識で求めていたのは実は「弱さ」だった。

つまりトウジの「弱肉強食の狩猟社会に戻す」というファシズムと「幻のエルクと同化する」という夢はいつか矛盾をきたし破綻する運命にあったのだ。

 

物語上は、狩猟社が日本を完全に支配し世界のトップと対等に並ぶところで終わる。でもきっと狩猟社は潰れてファシズムは失敗に終わるに違いない。トウジは幻のエルクと同化し、ゼロを失い、弱さを身につけ、最終的には「淘汰される側の人間」になってしまうはずだから。生きていくとしても、もうカリスマではないだろう。

 

「青春のファシズム」

小説タイトルの「愛と幻想」って、”青春”の意味そのまんまではないだろうか。

最後まで読めば、物語の発端と終局の主軸はイデオロギーでも反システムでもなくあくまでトウジとゼロの関係性だったと分かる。村上龍の過激なメッセージを読者に伝えるためにこの二人を用意して、この二人に語らせるために世界企業や革新政権の首相やファシズムを支持する強者や狩られる弱者を登場させる必要があったということ。

最初にDO THE LIONで紹介したときは「最高に痺れる危険な小説」と書いたけど、「最高に痺れる危険な青春小説」の方が正しい。他の作家が書いたら陳腐なライトノベルみたいになってしまうだろうけど、シリアスな情報を上手く駆使した村上龍文学さすがの勝利。

 

読んだことない人は、面白いからぜひ読んでみて。

愛と幻想のファシズム(上) (講談社文庫)

 

【関連記事】村上龍「愛と幻想のファシズム」最高に痺れる危険な小説

【関連記事】村上龍「限りなく透明に近いブルー」というありえない小説

【関連記事】村上龍エッセイシリーズ「すべての男は消耗品である」

【関連記事】村上龍「半島を出よ」北朝鮮コマンドが福岡を占領するという話

【関連記事】村上龍「69 sixty-nine」17歳の青春を描く底抜けに明るい自伝小説

【関連記事】村上龍「ライン」リアル過ぎて吐き気がする小説

COMMENTS

RELATED

関連記事

RELATED

関連記事