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「怠惰の法則」と「天才殺しの話」テクノロジーの進化の方向性【深津貴之】

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Takram Podcastで聞いた深津貴之さんの「怠惰の法則」と「天才殺しの話」がめちゃくちゃ面白かった。

デザイン・イノベーション・ファーム「Takram」がやっているpodcastのこの回のゲストはUIデザイナーの深津貴之さん。

この回では「怠惰の法則」というテクノロジーの進み方の法則について軽快に話が進んでいって、非常に興味深く、「ふむふむ確かに確かに」という納得感がすごかったので、内容を記事にまとめました。

 

「人間は怠惰である」

この「怠惰の法則」は、あるテクノロジーやサービスが流行るのか廃るのかを予測できるもので、一言で要約すると「怠惰な人に優しいテクノロジーが残る」という法則。

人類が生まれてからダメな人、怠け者な人、意志の弱い人にとって優しいテクノロジーやサービスが残ってきた。あらゆるサービスは怠惰な方向に向かっている。

例えば、料理に使う「火」というテクノロジーについて言えば、人は雷が落ちてくるのを待つより、火打石を使って焚き火をする方が楽なことに気がついた。同じように、焚き火よりも竃(かまど)の方が楽。竃よりコンロの方が楽。コンロより電子レンジの方が楽。という方向で進化してきた。

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移動技術で言えば、歩くより籠、籠より馬車、馬車より車、という具合。

コミュニケーション技術で言えば、原始時代は4kmくらい先の人までの会話が限界だったけど、それが手紙→鳩→電信→電話→email→チャットという楽な方向へと進化していく流れ。

セットアップと後処理が楽なものな方が残るのだ。

この考え方でいうと意外とVRはまだ来ない(流行らない)、もしくは来る条件がまだ揃っていないんじゃないか。なぜなら、人間の怠惰性にフィットしていないからだ。

VRは頑張らなきゃいけないテクノロジー。使う時に毎回、出して、キャリブレーションして、ケーブル挿して、どっち向いてるか確認して被ってというように、マメな人じゃなきゃ使えない。そこを解決しないと流行らない。よく指摘されてる「価格」とか「酔い」が流行らない原因ではなく「面倒臭さ」が原因なのだ。

このように新しいテクノロジーが出た時「怠惰の法則」に則って考えると、それが流行るかどうかはダメな人に優しいかでどうかで判断することができる。ダメな人に厳しいほど、意識の高い人や専門家にしか使われないテクノロジーとなるのだ。

では、この流れから脱落したテクノロジーは消えるか?

必ずしも消えるとは限らない。メインストリームから脱落したものの中の「面倒臭さ」を「価値」に変えられたら、そのテクノロジーは消えない。脱落したテクノロジーが娯楽や文化やシンボルとして生き残る可能性は十分ある。例えば、馬は移動競争から脱落したけど、乗馬になった。焚き火は料理競争から脱落したけど、キャンプファイヤーになった。年賀状、送り状、結婚式の電報などもそう。だが、このように様式化されることはあっても、二度と生活の手段としてメインストリームに戻ってくることはない。

 

「怠惰な人に優しいもの」しか買われないのか?

例えば、新しい掃除機が発売されたとする。すごいパワフルな機能が100個付いたものより、ボタン一個押すだけでなんとなく全部解決するもの方が最終的には生き残るだろう。もっと言えば、そもそも掃除しなくていい部屋とかの方が残る。

では購入を決定するシーンで、必ず楽なものを人間は選ぶのか?

これは人がモノを買う時のモードの差による。機能ががたくさんあったほうが売れる時もある。

最終的に生き残るかは別として、瞬間的に売れるのは付加価値が多くみえる方の場合がある。ゴージャスに見えて買いたくなる。タレントとか使って買いたい!と思わせて終わりだと、カタログスペック勝負になる。そういう時には一時的にそっちが売れる。

けど、今の時代「騙されたー」とかいう書き込みがSNSでバーっと流れて、次回作を2度と買われなくなる。そういう意味では時代的には「怠惰の法則」の威力は増しつつある。

 

人間は無限に怠惰になっていくのか?

未来はつまらなくなるのか?人間は馬鹿になるのか?

無限に怠惰に行くように見えて、じゃぁ昔の人間は今に比べて真面目だったかというときっとそうではない。「ツールが進化すると人間がダメになる」に対する反論がいくつかある。

例えば、昔僕たちの祖先は靴を履いていなかった。その期間は長かったはず。そして、靴が発明されて以降、人間の足の裏はふにゃふにゃになった。だが、この地球上に自分たちの足裏が柔らかくなったことに苦情を述べる人はいない。靴というテクノロジーと人間が合わさって、「拡張された人間」になっていいのだ。

裸足の人間と比べて靴を履く僕らは退化したのか?いや、進化とみていいんじゃないか。

「怠惰の法則」を言い換えると、社会の功利を一番効率よく増加させるツールが生き残るということになる。

怠惰性の逆数は生産性。行動に対する利得を上げていくのが、人間と人工物の進化の系譜だ。投入コストを抑えてより多くの利得を得ようとする。

つまり、怠惰な法則で言いたいことは、人間が怠惰になるためにテクノロジーは進化していくのではなく、生産性を上げる方向に技術は進化してき、それは結果として怠惰な人に優しいということになるから、怠惰な人に優しいかどうかでその技術は人間に求められている進化なのかどうかが分かるよね、ということ。

 

テクノロジーが新たなニーズを生む

他にもテクノロジーが人を怠惰にするとは限らない例がある。

例えば、洗濯機の話。洗濯機が世の中に普及して家事に費やす時間は減ったのか?むしろ増えたのだ。洗濯に費やしてる時間は洗濯板時代に比べて増えた。生活の中で処理できる洗濯物の量が洗濯機によって増えたからだ。

「欲望のオブジェ」という本があるんだけど、商業側がテクノロジーに合わせて文化を発明するという話がある。「もっと服を着よう」「主婦は家をきれいにしよう」というようなイデオロギーが発明されるのだ。

AIが仕事をなくすか?という話がよくあるがそんなこと絶対にない。

日本の場合、清潔さとの戦いが増えるんじゃないかと思う。この戦いは日本で特に起きている。つまり、臭いとの戦い。

体が臭いという理由でスプレーが開発されたり、口臭を抑えたいからタブレットが開発されたり、とにかく清潔でいたいからすごい頻度でシャワーを浴びたりしている。

こういう現象が起きたのは「臭いが出たら嫌だ」が発明されたからだ。

1900年代には体臭が臭っていることは何も変じゃないし、おじいちゃんはおじいちゃんっぽいニオイを発していてよかった。シャンプーとかがなかった時代はどうしてたかというと、みんな気にしてなかった。

なのに「誰かが臭いがするのはダメなことだ」という概念を発明した。

日本の「臭いがダメだ」という発明がすごい進化してるから、海外のバスとか乗ると臭いがすんごいにいちゃんの体臭を誰も気にしていないことにびっくりしたりする。

何かが問題なのは、問題であるってことを発明して普及した人がいるからだ。それが発明されるまでは何も問題ではなかったはずなのに。

他にも商業側がニーズを生み出す例として、なぜ上段にあった冷凍庫は中段に来たのか?という話がある。

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前は冷気が下に行って効率的という発想からそうなっていたのだが、最近の冷凍庫は真ん中に引き出し型としてある。容量的は昔に比べて4,5倍になった。

冷凍庫が大きくなった裏側には、食品業界が冷凍食品の市場を、特に日本は、猛烈に拡大した背景がある。日本の冷凍食品はやたら美味しくて便利になり買う人が増えた。そして冷食はカチカチで摩擦がなく滑る。上にあると滑るし、重いしで危ない。

そのような理由から今コンテナーとしてしっかりした引き出しタイプになった。

付随して、それができたことで電子レンジが売れてる。

キャパを作る人たちとそこにコンテンツを投入する人たちの弛み無い歩み合いがあるのだ。

コンピューターだって、スペック的にはここ数年なんにも問題ない。もうスッペクはいらないはずだろうと思ったら、上がれば上がるだけそれを必要とする新しい技術が生まれるものなのだ。

 

テクノロジーの「天才殺し」

全てのテクノロジーは人間の才能を無効化してフラットにしていく方向に進んで行く。

紀元前は足が速い、力が強いっていう人が、村一番の英雄だったり国の英雄だったりした。

それが、鉄が発見され、剣が作られ、弓矢が発明されると武術が強くないと英雄になれなくなった。鉄砲なんて発明されたら武術の英雄も消えた。

走る人も42kmを走れれば教科書に乗っかれた時代があったかもしれない。でも今は車があるからそのスキルで英雄にはなれない。他にも、まっすぐ線が描けるとか細かい絵が描けるっていうスキルもパソコンや写真の登場で価値が下がった。

突出した才能は「それなくてもこの道具あればいいよね」と言われる方向にテクノロジーが進化している。才能マップ、能力マップ、みたいなものを作ると、メジャーな才能ほどテクノロジーに食われて行っていることがわかる。

例えば、最近の例を出すと「英語を喋れる」がそろそろ危ない。「英語が喋れるから活躍している人」っていうカテゴリーってのは後5年ぐらいでなくなる。車の運転のマニュアルとオートマと同じで、「すごいですね”生身”で英語しゃべれるんですね」ってだけの話になる。

「スペイン語という能力」ではなく、経験が価値を持つ時代になってくる。スペインに3年住んでて「現地に友達がいる」とか「肌感覚が分かる」の方がはるかに価値が出てくる。

コミュニケーションのツールとしての英語は消える。

AI話学校なんて出てくるんじゃないか。AIを使って世界の人とコミュニケーションをとるみたいな、怠惰な人のための学校。英会話学校はAI話学校に乗っ取られるかもしれない。20年後は母国語で喋ってるけどみんなコミュニケーションを取れている、みたいな状況になっているだろう。

 

20年後はディストピアか?

物事の良し悪しは自分の人生経験からみた相対値だ。

今の僕らから観測したら20年後は悪い未来なのかもしれないけど、20年後に生まれてそこで育った人にとってはそれが普通だから何も困らない。その時に僕たちが文句を言っても、単におじいちゃんがグダグダ言ってるよ、って話になる。

1600年とかを振り返って「お手伝いさんがいなくてコルセットつけてくれなくなって僕らはなんて不幸なんだ」とは思わない。カツラを30段ぐらい被れないことで僕らの文化は貧しくなったとは思わない。

僕らは21世紀の視点で見てるから1600年からみた不幸なんて全然お門違いだったりする。

みんなが悲観するほど未来は不幸になってない。不幸になるのは今の価値観を後20年持ち越しちゃった人たちだけなんじゃないか。
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いかがでしたか?

テクノロジー好きの方にはもちろん、未来がどうなっていくのかが気になる人にも興味深い内容だったのではないでしょうか。

この話に関連してtwitterでこの間回ってきたSteve Jobsの話も思い出しました。

「生身の人間は移動効率が生物界で下位だが、自転車に乗った人間はずば抜けて1位になる。人間は道具を作ることによって生まれ持った能力を劇的に増幅することができる。」というお話。アップルは実際「パソコンは脳の自転車」という広告も打ったそうな。

今回のお話はsound cloudでも配信されています(そのまま再生ページに飛びます)→https://soundcloud.com/takramcast/fukatshu-01

 

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