主人公グレゴールはある日ベッドで目を覚ますと自分の姿が毒虫になっていた。
部屋のドアを開け、変わり果てた姿で家族と対面したグレゴールの数ヶ月の物語が始まる…
フランツ・カフカという20世紀文学を代表する作家による小説「変身」。
単行本で約100ページに収まるこの短い小説は毒虫になった男を通して何を伝えたかったのだろうか。
全3章からなるこの小説のあらすじと結末。(ネタバレあり)
第1章
ある朝グレゴールは自宅のベッドで目を覚ますと無数の足と固い甲殻を背負った褐色の毒虫になっていることに気がついた。
仕事に行けるはずもなく、ベッドの上で状況に対処する努力を続け、慣れない体でもがいていると職場の支配人が家に呼び出しに来る。
妹と両親も怒る上司をなだめつつ部屋の中の様子がおかしいことを心配しながら、なんとか部屋から出てくるようにグレゴールを説得する。
意を決して毒虫になったグレゴールが部屋のドアをなんとか開けると、支配人は驚きと恐怖のあまり逃げだし、母親は金切り声をあげ、父親はステッキでグレゴールを無理やり部屋に押し返す。
第2章
グレゴールは元に戻ってくれるんじゃないかという祈りに似た希望を抱いている家族との生活が始まる。
17歳の妹は毎日食べ物を運び、部屋を掃除し、稼ぎ頭を失った一家の父親は金を工面するために努力し、息子の姿を直視することができない母親もなんとか状況受け入れようと毒虫グレゴールに気を使う。
しかし、部屋の壁や天井を這いずり回ることに快感を覚えるようになった彼の姿を見て母親は気絶してしまう。
父親はリンゴを毒虫グレゴールに投げつけ、彼は重傷を負う。
第3章
毒虫は1ヶ月以上負傷に苦しみながら、掃除されなくなった汚い部屋で放って置かれる。
食べ物も運ばれはするが、妹はただ作業的に適当な食べ物を差し出しては下げるの繰り返しをするだけだ。
金を工面するために空き部屋を3人の傲慢な男に間貸するも、妹のバイオリンの音色に惹かれて隠していた毒虫が部屋から姿をみせると、男たちは驚き怒り、金を払わないどころか請求すると家族に宣告する。
いよいよ家族にも限界が来て、毒虫は「家から出て行った方がいいアレ」扱いになり、存在の消滅を望まれるようになる。
次の日、お手伝いおばさんが部屋で毒虫が死んでいることを発見する。
毒虫の死体はおばさんによって片付けられ、数ヶ月ぶりに家族は3人で開放感と共に電車で外に出かけ、清々しい気持ちで未来を思い描く…
この物語を通してカフカは何を描きたかったのだろうか。
これは単なる虫に変身してしまった男のSF小説ではない。
常に描かれているのは主人公の心情と家族の行動だ。
主人公がなぜ虫になってしまったのか、どんな虫になってしまったのか、等はどうでもよくて、原作が出版された時も表紙にはカフカの意向で虫の絵は描かれていない。そこがポイントではないからだ。
描かれているのは部屋の中に「何か見たくないもの」を見つけた人間の絵だ。
「毒虫」はドイツ語の原文では「Ungeziefer」なっており、これは古高ドイツ語で「生け贄にできない不浄な動物」を意味する。
実際この「毒虫」は、「狂人」や「蛙」と置き換えても物語の構造上は問題ない。
つまり、虫は比喩だ。
何を象徴しているのかというと、「それまで在ると信じていた(信じられていた)アイデンティティが変わり果ててしまった存在」である。
カフカは「人間のアイデンティティがどう社会に存在しているのか」を、この毒虫に変わってしまった主人公とその家族との関係性を通して描いているのだ。
自分視点で考えると、人間は自分が自分であるということを他者とのコミュニケーションの中で確認している。他者からの「お前はこうだから、お前に対してはこうする」という行為(評価)によって、自分の社会的存在を認識することができる。
姿も行動も毒虫に変わってしまったグレゴールは、1番身近である家族から受ける扱いがガラリと変わる。
家族の自分に対する扱いが「毒虫」に対するものなので、自分は「毒虫」なのだと認識するようになる。
毒虫となったグレゴールがどんなに心の中で(自分はグレゴールだ)と思ったところで、コミュニケーションの術を持たず、相手にそれを伝えることもできず、家族は毒虫を毒虫としてみる。
家族視点で考えれば、それは当然であることのように思える。
グレゴールの余韻を感じ取っていた第1章では家族はまだグレゴールを「毒虫」として扱い切らない。
しかし、第2章ではグレゴール自身も更に毒虫らしさを帯びてきて、それを観測している家族のグレゴールに対する認識は徐々に「毒虫」になっていく。
そして第3章、ついにグレゴールは完全に家族ではなくただの「毒虫」として扱われる。
グレゴール(=毒虫)に対して愛を失った家族は、それを消えたほうがいい化け物と定義することで、不幸の原因(元家族)を取り除こうとする自分たちを納得させる。助け合うのが前提としてあるのが家族と思われるが、その大前提にある愛がなくなると、邪魔で気持ちの悪いとなった毒虫を助けようと思うことすら不可能だ。この「変身」という不条理を持ち込まれた極端な状況下においては、愛は無条件ではないのだ。
自分がどんなに「姿は変わったかもしれないけど家族じゃないか」と思ってみたところで、自分を他者がそう扱わなければ、自分という存在はそう在れない。
そして物語の最後、毒虫になったグレゴール自身、その他者からの見方を受け入れ、消えたほうがいい存在だと自分で自分を認知し、物理的にも社会的にもその存在は消滅する。
心は残っていても他者が自分に対して感じるアイデンティティが変化してしまっては、自分は姿形だけでなく、存在まるごと変身してしまうのだ。
このようなメッセージを小説を通して突きつけたカフカはどんな人物だったか。
プラハでユダヤ人の息子として生まれ、保険局員や秘書官としての生活を過ごす傍、カフカは小説を書き続ける。
職場の友人たちによると、敵は誰一人おらず、掃除のおばさんに会った際にも挨拶を返すだけでなく、相手の健康や生活を案じるような一言二言を必ず付け加えた「めっちゃいい奴だった」そうだ。
また、祖先や親戚には奇人変人が多かったそうな。
性質が異なる父親と仲が悪かったカフカは便箋で100枚にも及ぶ長文の「父への手紙」を書いた。この手紙は、なぜ私を恐れるのかという父の問いかけに答えることから始まり、幼いころからどのように傷つけられたか、そのことで自分の世界がどのように変容していったかを、予想される父からの反論に対する答えを交えながら綴っている。そして父との関係が、これまでの自分の結婚の失敗にも悪影響を及ぼしていることに対し父に理解を求めている。(結局これは手渡された母と、それを読んだ妹に止められて父には渡らなかった)
なんとなくこのエピソードはカフカらしくて個人的には好きだ。
死ぬまでに多くの未完作品を残していたが友人に全て焼き捨てるようにとの遺言を残す。が、友人は未完の作品を編集し完成させ世に送り出す。それが『審判』『城』『失踪者』などで、特に実存主義的見地から注目されたことによって世界的なブームとなった。
これらの作品が、「真実に近づく洞察力」と「今尚読まれ続ける表現力」を抱きながらカフカは当時の社会の中で人生を過ごしていたんだろうな、と読む者の想像をかきたてる。
ものすごく簡単に言えば「めっちゃ人を深く見てた」人なんだと思う。
見えすぎていたのかもしれない。カフカはいつも死にたいと思っていた。
人間の各々の立場や性格と心情を見事に描き、人間関係における真理を毒虫に変わった男を通して描いた名作「変身」。
もちろん「真理」と言っても、カフカなりの解釈を俺なりに解釈したものだ。
存在の在り方を本人の意思とは関係なく強制的に変身させてみたらどうなるか、という思考実験をし、カフカなりの実験結果を小説という形に落とし込んだような印象を受けた。
あるいはこれは神話のようなものかもしれない。
事実、今もなお「変身」は様々な研究者を魅了し、無数の論文が発表され様々な解釈がある。
数多くの映画や舞台の題材にもなっている。
この小説「変身」を読んで、ついこの間読んだ村上龍の「ライン」にも通じる部分があると思った。角度は違うがカフカも村上龍もこれらの作品で描いているテーマは本質的には非常に似ていると思う。。
(興味のある方は詳しくはこちらも読んでみてください→村上龍「ライン」リアル過ぎて吐き気がする小説)
真実は、残酷な場合が多い。
他者を通してしか自分を確認できないとしたら、自分が自分として生きるには他者を無視することはできない。他者から「毒虫」と思われては生きていけない。その事実からは目を背けてはいけない。
「変身」をハラハラドキドキのSF小説だと思って読んだ人にはつまらなかったかもしれないが、このような視点から読み返してみるとこの小説の持つ意味深さと面白さに惹かれるはず。
100ページほどで読みやすいのでオススメです。
COMMENTS
グレーゴルではないでしょうか
訳者によってグレゴールだったりグレーゴルだったりするのでセーフ