去年学生を卒業し、社会人としての生活が始まった。
地元の神奈川を起点として、南は鹿児島の屋久島までいった車旅や、北は青森までいったヒッチハイク旅などをしたのち、1年前から日本→タイ→カンボジア→インド→フランス→イタリア→ギリシャ→アルバニア→トルコ→オーストラリア→中国→日本というルートで各国に降り立った。
小さい頃から形成されてきた、シンプルに言うと「色んなところで色んなことをしたい」という願望を指針に動いてきた結果こうなったということだと思う。その根本には人間誰でも持っているであろう「自由への渇望」があったのだと思う。
なぜ、「と思う」という語尾になっているのかというと自分でもよくわからないからだ。自分のことでさえまだまだ完全に把握できるわけもなく、常に「それっぽいもの」を答えとしている。そうするしかない。俺は特に「自由への渇望」自体が強かったのか、それを無視しない力が強かったのだと思う。
実際問題、資本主義社会の中で生きるのには金が必要だ。金は稼がなくちゃいけない。1年前に書いたように、学生の頃から、ぼんやりと捉えていた「自由に生きるための金の必要性」みたいなものをクリアするために、「経済的自由」や「場所的自由」や「時間的自由」や個人的な「仕事としての好み」も両立させられるであろう、WEBサイト制作やグラフィック制作や翻訳業務などのオンラインで成立するスキルを磨いていてきた。磨いてきたと言えるほどの努力をできたのか、十分なスキルを身につけられたのかも分からないが、とにかくそういう考えを頭の根本に置いてきた。
俺の肩書きは「自営業」なのか「フリーター」なのか「浮浪者」なのか「旅人」なのか「ノマド」なのかよく分からないけれど、ここでは便宜上、就職という形で組織に属さないで仕事をしつつ生きる人という意味で「フリーランス」ということにしておく。
全てが完璧からは程遠いが、それ自体が目的であった「移動しながらの生活」を実践し、それが色々なタイミングが重なって終わった今、ここ1年のフリーランス生活を振り返って、現時点で自分なりに分かったことをまとめていこうと思う。
「自由」っていう概念は人類が誕生してからずっとあり続けてきたものだけど、本質的で根本的なものであるが故に、その捉えどころは難しい。色々な階層で考えられることだし、色々な角度から定義づけることができると思うけど、俺が特に考える「自由」の定義の一つは「より多くの選択肢を持ち、それを自分の意思で選択できること」だ。
自由かどうかは、あるラインを基準に「自由である」「自由ではない」と2分できるものではない。あるのは程度だけで、つまり「どれだけ自由か」ということだ。
「人間は生まれながらにして自由だ」と言われるような意味での自由は、「自由意志を持っている」という意味だと思うが、俺がここで言いたいのはそういうことじゃない。選択する自由だけでなく、どれだけ自分が欲する選択肢を持てるかが「自由」を考える上で重要だと思う。荒野に放たれた子羊を自由とは言わない。そんな奴には選択肢がない。
どれだけ自立しているかということが、どれだけ自由であるかということに直結してくる。経済的な自立はもちろん、精神的な自立が特に自由の獲得に関わってくる。行動の自由を阻害するのは大抵の場合、自分の精神的な制約だ。出来ることを出来ないと思った瞬間に選択肢は消える。つまり、「度胸」や「勇気」や「甘え」や「怠惰」といったものが自分の自由度を決定する要因として大きいのだ。
制約を取り払い、あらゆる観点からより多くの選択肢を獲得し、それを実行することで人は「自由」になれる。
学生の頃にある授業で教授が「学生のうちは自由だとか言われているけどね、本当に自由になるのは大人になってからだよ。」と言っていた。これを聞いた時に俺は「間違いねぇ。」と思った。
一旦ここでは「大人」の定義を「自立しなければいけない立場に置かれた人間」ということにする。
例えば学生として、大人になるまではある程度限られた用意された空間に守られているが、大人になると、学生の頃からは想像出来なかったほど広い世界(社会)に放たれ、どの環境を選ぶかという自由はもちろん、環境を選ばない自由も、さらに言えば環境を作る自由も、手に入れることになる。
そして自由になったからこそ、自分で自分の選択肢を持つようになったからこそ、大人の自分自身に対する責任は重い。自分が取る選択が自分の人生にもろに反映される。よく言う「自由には責任が伴う」というやつだ。だから大人は甘くない。
学生の頃でもある程度までは言葉上で想像できたが、実感として理解するのは実際に大人になって自由を体験してからだ。
大人になると子どもの頃よりも自由になり、どれだけでも上がっていくこともできるし、逆にどれだけでも堕ちていくことができる。つまり、大人はいくらでもこじらせることができる。
自分が人間として、社会的な動物として生きていく限り、環境という要因は無視できない。そして、選択肢は常に環境に用意されている。その中には堕ちていく選択肢もある。自分にとって常に最良の選択肢を取り続けることは難しい。
それはまずひとつとして、自分にとっての最良とは何かということが自分にもよく分からないからだ。たまによく分かっている奴がいるけど、世の中の99%の人間には分からない。
そしてもうひとつとして、自分の中には「無知」や「怠惰」などが備わっているからだ。たまに完璧に見える人もいるけど、世の中の99%の人間はこれらを持っている。
自分にとっての最良の選択肢を自由な世界で取りたければ、「自分がどう在りたいか」ということを、なるべくはっきりさせなければいけない。それをはっきりさせるためには考え続ければいいというものでもない。考えすぎると言葉に囚われて逆にわからなくなることもあるからだ。(そもそも分かりきるものでもない。)だから、分からなくなった時には、何も考えず本能の赴くままに行動することも大事だ。どこかで見切りをつけて出発する必要がある。考える考えないのバランスもまた人それぞれである。
そして常に、堕ちていく選択肢に流されないために、上がっていく選択肢を取るために、自分の弱さと戦っていかなきゃいけない。「己に克つ」とはそういうことだと思う。(社会人2年目、俺はまだまだ負けまくっている。)
自分が自分にとってベストであるためにはそういったバランスなども含めて自分のことを知らないといけない。
どこまで自分のことを自分の中だけで完結させられるかという程度もまた人それぞれである。
だが、全てを自分の中に収められる人間はいない。だから、人との繋がりは大切だ。
大人になって自由になったからこそ、自分を律していかなきゃいけない。
自由になって、どれだけ上がっていかもどれだけ堕ちていくかも自分次第になった今、さらなる自由を獲得するためには自分で自分をコントロールしなきゃいけない。
助けられてるだけじゃカッコ悪いのだ。
俺はかっこいい大人を決める要因として、「どれだけ他者を助けられているか」「助ける能力を持っているか」という点が重要だと思う。
この1年、俺は物理的にかなり移動してきたが、それは国を渡る旅というよりは人を巡る旅だった。人が俺に動くきっかけをくれて、そして行った先でも、遠くからでも、色々な面で色々な人に助けてもらった。
助けてもらって、卑屈になったり、申し訳なさばかりを感じる必要ないし、申し訳なさを感じるよりも感謝すべきだとは思うが、それでもやはり助けられてばっかりだと申し訳なくなる。
生きている限り人間は1人では生きられないので、助けられなくなることはない。人は人に生かされていると思う。
そして、同時に人を生かせる人間でもありたい。
単純に言って、やはり人を助ける奴はかっこいいし、説得力がある。助ける能力がある奴は強い。強いから助けることができる。
だからあらゆる点において今を0として、改善強化していきたい。
強さを決める要因の一つに金銭的な面がある。
金というのも概念として大きすぎてまだ捉えどころが難しかったりして、疑問が残ったりはするが、一つはっきりしたことは俺には必要だということだ。
俺は資本主義からは逃げられないし、逃げないな、ということが分かった。山奥に住んで完全な自給自足をすれば話は別からもしれないけど、俺は今のところそう生きるつもりはない。俺はこれまでもそうだったように資本主義社会の中で生きていく。
ものすごく簡単に言えば、俺は飛行機を作れないし、人が作った飛行機に乗りたい。人が創り出した価値を手に入れたければ、人に共通する自分が作った価値(金)を対価として払う。そういう社会で生きていくから金は必要だ。
また、資本主義社会の中で金は圧倒的な説得力を持つ。助けたい人や説得力を持ちたい相手が資本主義社会にいるなら、自分はそこで強くなきゃいけない。
ウシジマくんが「金が全てじゃねぇが、全てに金が必要だ。」と言ったように、
村上龍やひろゆきが「金で幸せは買えないけど、あらゆる不幸は回避できる」と言ったように、
このご時世やはり金は大事なのだ。
しかし、めちゃくちゃ大事で、その捉えどころが大きすぎるからこそ、やはりそこには人を盲目的にさせる力もある。それ自体が目的になってしまう危険性を孕んでいる。
そこは冷静にあくまで手段として必要なものとして、見定めた上で、この金という点に関しても強くなっていきたい。これに関してはある程度長い戦いになりそう。
人生は楽しいほうがいい。
ジョン・レノンが
「Time you enjoy wasting, was not wasted. (楽しんで無駄にした時間は、無駄じゃない)」
と言ったように、
リトルキヨシトミニマム!gnk! が
「笑った顔可愛いんだぜ可愛いんだぜぇ~楽しむことに意味があるんだぁ~」
と言ったように楽しい時間には意味がある。
人生の目的は幸せになる事であり、喜びを得ることであり、楽しむ事だと思う。
しかし、本当の意味で楽しむ事は難しい。ただ遊べば楽しいってもんじゃない。
大きく言えば自分に誇りや自信がもててるか(在るべき状態に在れているか)、もうちょっと細かく具体的に言えばその時やるべきことをやれてるか、が楽しめるかどうかに大きく関わってくる。宿題が山積みに残ってるのを無視してカラオケで心の底から楽しく歌うのは難しいのだ。
そのような条件を満たした上で遊べているか。。いや、まぁ、こんな事をグダグダ考えて書く事が野暮ってものかもしれない。
バカになって楽しめてればいいんだ。バカになれる強さがあって、それで楽しければいいんだわ。
だけど、実際問題バカだろうがバカじゃなかろうが、本当に楽しめてる大人ってほんのひと握りだと思う。
そう言うことを考えるとやっぱり楽しむってことはそう簡単じゃない。
生まれなかったら生まれなかったでよかったのに、何の理由があんのかは知らないけど、人生スタートしたんだもん。どうせ生きるなら、一度きりの人生、楽しみたい。この世の面白さを知りたい。
バカになれないなら、楽しむためにはやるべきことをやらなきゃいけない。
村上龍も言っている。
「楽しく生きるためにはエネルギーがいる。戦いである。」
この戦いから退くも退かないも自由だ。
ただ命を消耗させていくのではなく、本当の意味で楽しく生きるためにはエネルギーが必要だ。
エネルギーを発さずに、堕ちていくことは誰にでもできる。
自分にとっての楽しいとは何か、自分にとってのエネルギーの発し方とは何か、そういったことを行動の中で考えていきたい。
だいぶ長くなった。。1年を振り返れば、思うことや分かったことはまだまだあるけどきりがないので、ここらでストップ。
新たな発見があったり、元々分かっていたことへの実感が深まった1年でした。
偉そうに分かったとか言ってるけど、何かが分かるたびに思うのは何も分かっていないということです。
まだ自分のために生きるだけでも精一杯なひよっこ人生24年生の現時点での感想です。
結局、上がっていくためにも、自由になるためにも、生かされるだけじゃなくなるためにも、かっこよくなるためにも、強くならなきゃいけない。そして自分にとっての強さとはなにかということだ。全てを取ることはできない。
頑張らなきゃいけない。どれだけ細分化して何をどうやるかということをリアルに考え、それを実行できるかだ。
これからも自分のペースで生きていこう。
自分のペースで生きるとは、ペースを変えないことじゃなくて、自分の必要に応じてペースを変えていくことだ。手段も変わっていくだろう。
本質を見極めながら今自分に何が必要なのか注意深く考えながら生きていこうと思います。
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