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2018.01.10

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レビュー

「参考」と「盗作」の線引きはどこか?馬場康夫「ディズニーランドが日本に来た!」が答えてくれた

モノ作りに関して、以前からはっきりと答えが出ないこの問いがあった。

「誰かが作ったものを参考にする時、どこまでが参考で、どこからがパクリになってしまうのだろうか?」

過去の作品を調べてそこからイメージを膨らませたり参考にしたりすることは、クリエイターにとって必須の制作プロセスだ。今はweb上にいくらでも先例が画像や動画やテキストなどの情報が転がっていて、参考にするものはいくらでもあり、昔よりもはるかに参考作品を見つける作業が捗るようになった。しかし逆に言えば、ググればいくらでもパクることができる状況でもある。

では何を基準に「参考」と「パクリ」を分けるのだろうか?

この問いに対して馬場康夫の著書「ディズニーランドが日本に来た!エンタテインメントの夜明け」が明確な答えを一つ出してくれた。

結論から言うとその答えとは「参考にする作品を『好き』ならばそれは盗作ではない。」というものだ。

ディズニーランドが人々にウケた理由の一つは、徹底的に「ご存知モノ」をベースとし、そこにディズニーなりのクリエイティビティが盛り込まれているからだ、という話の流れの中で、「エンタテインメントの基本は模倣である」ということが本にはこう書かれている。

「創作とは、記憶である」とは、かの映画監督、黒澤明の言葉。

そもそもエンタテインメントの基本は模倣である。先達の作った娯楽作品を見て、面白いなあと感動し、自分も同じ感動を人に与えたいと、記憶の再現を志す。いつの時代も、それがエンタテインメントの作りの出発点だ。

(中略)

金儲け第一主義の商売人がどう思うか知らないが、エンタテインメント界のクリエイターには、その作品が「好き」なら、真似してもOK、真似されてもノープロブレム、という暗黙の了解がある。(「ディズニーランドが日本に来た!エンタテインメントの夜明け」p185,186)

「好き」は尊敬につながり、尊敬は誠意につながる。誠意があれば他人の作品をソックリ真似しておいてそれは自分のオリジナルだ、などという顔はできない。真似を正直に認めた上で、敬意をこめて前の作品が作ったパターンのさらなる前進を目指す。真似られた者は、パターンが前進した時は、盗作などと訴えたりせず、娯楽作品の進歩を素直に喜ぶ、そうした愛と信頼の積み重ねこそが、エンタテインメントの歴史であったはずだ。(「ディズニーランドが日本に来た!エンタテインメントの夜明け」p186,187)

アメリカ映画では、そんな信頼に支えられた模倣と前進の例は枚挙にいとまがない。『E.T.』の冒頭は『バンビ』そっくりだし、『インディ・ジョーンズ』の一作目には『踊る大ニューヨーク』と全く同じギャグがある。『A.I.』は『ピノキオ』そのものだし、『ミスター・インクレディブル』は007シリーズそのものだ。(「ディズニーランドが日本に来た!エンタテインメントの夜明け」p187)

かのシェイクスピアは、生涯で37本書いた戯曲のうち、オリジナルは『真夏の夜の夢』『恋の骨折り損』『ウィンザーの陽気な女房たち』『テンベスト』の4作だけ。残り33作は、すべてギリシャやローマの古典劇の焼き直しである。(「ディズニーランドが日本に来た!エンタテインメントの夜明け」p192)

「エンタテインメントは、先の時代を生きたクリエイターたちとの愛と信頼に基づく模倣の積み重ねである」ということである。

そして、これはエンタテインメントに限らず、価値と進化のクリエイションすべてにおいて共通して言えることなのではないかと思った。

 

 

ちなみに、この本の主な内容はディズニーランドの日本に招致に関わった三人の男「小谷正一」「堀貞一郎」そして「ウォルター・イライアス・ディズニー」の生き様を描く物語。

この本を通してディズニーランドが日本に来るまでの熱い歴史、込められた想いやクリエイションに関する思想を知った今、個人的には「混んでるしディズニーランドはもう別にそんなに行きたくない派」だったけど、改めてディズニーランドに行ってみたくなった。あれだけ混んでるディズニーランドすげぇよ。

 

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