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2017.09.9

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レビュー

村上龍「ライン」リアル過ぎて吐き気がする小説

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普段なら同じ小説を読むことはしないんだけど、なぜかこの小説は2回読んだ。

この小説が持つリアリティに惹きつけられたんだと思う。

リアリティがあると言ってもこれはいわゆる”日常”を淡々と描くものではない。

むしろその逆で、この小説が描くのは社会の端っこに住む極端な性質を持つ18人の人間だ。

物語はユウコという電話やテレビのコード(ライン)を見るだけでそこを通る情報の中身が見えてしまう人物を起点に、多数派からすると非日常的な彼らの日常のコミュニケーションの連鎖を追っていく。

ちなみにユウコのモデルになった人物は実在し、彼女からインスパイアされて村上龍はこの小説を書いたらしい。

この記事では「ライン」が持つリアリティと、エグい現実味を帯びた物語を通して村上龍が何を伝えたかったのだろうかという考察を書いていく。

 

章毎に変わる視点

各章のタイトルは「Vol.1 向井」「Vol.2 順子」「Vol.3 ゆかり」というように、その章のメイン人物が出会う相手(=他人)の名前になっている。

ある人物の生活の中で他人との接点が生まれ交差していき、章毎に登場する2人の人物の視点が描かれていく。

全20章から構成されるこの小説の特徴は、各章で視点が次の登場人物にパスされていくところだ。つまり、主語が変わる。

例えば、本文から引用すると次のようにさらっと視点が変わり、次の章に移っていく。

(ここまで順子視点で感情や周りで起こる事が描かれている)
順子は、このゆかりという十九歳の女が会う人会う人全員に、愛している、と言って回るところを想像した。
「ちゃんとしたSM、みたいなのが少ないって思いません?」
「さあ、どうなのかな」
(中略)
「Sは嫌い?」
「嫌いってわけじゃないけど」
「じゃあどうしてやらないんですか?」
「面倒なの」
そうだろうな、お前には女王様なんか無理だよ、とゆかりは思った。
(以後、ゆかり視点に移り変わる)
「Vol.3 ゆかり」より

この小説では第一人称は一切使われない。

「私」や「俺」は使われず

高山は口笛を吹きながら、女が言った洋服の特徴を実際にイメージとして思い描きながら、ロッカーにしまってあるスタンガンを取りに会社に戻ることにした。

といった具合に常に村上龍が第3者の視点から登場人物を客観的に追っていく。

そして、例えば、エリート家庭で育ち小学生の時にIQ170を出した時に得たプライドをいつまでも引きずって人を見下しながら生き続けた結果拒食症になって痩せこけたウェイター、といったように、各人物の過去の家庭環境やトラウマと現在の状況が描かれる。

その内容がなんだかやたらリアルなのだ。たとえ自分がそのような経験をしたことも、そのような体験をした知り合いがいなくても、体験が人格と行動へ与える影響の関係性が妙な説得力を持ち、読み手に謎のリアリティを与えられる。

このようにして各人物、他人同士の「エグいルーツと今の生活」が交わり、リレーが続いていくのだ。

 

「Vol.20 他人」が意味すること

「Vol.19 ユウコ 2」の章の最後、人間関係の縺れと会社にリストラされたショックから統合失調症になり常に社会から監視されていると感じ自宅の窓から外を見張っていた男と早朝散歩していたユウコは出会い、最終章「Vol.20 他人」に移る。

ユウコの近所の家の犬小屋に、首に犬の鎖をつけた男が住んでいる。背中から血が出るまで顔のきつい女にぶたれる生活を送りながらもその男はこう言う。

埼玉で家族と暮らしているときはいつも寂しさを感じていた、その頃はそれが寂しさだって気づいていなかった、子供は二人いて、可愛かったけど、おれはいつもいらいらして、そうしなければいけないからというだけでトラックに乗って働いて家族とピラフを食べたりしていた、何かが足りないとか、そういうことではなかった、何かが全部違っていた、人間というのはいろいろな自分があるんだと思う、接している他人に応じて人間は人格が微妙に変わる、本当は会う人ごとに別の人間になっているんだと思う、それは他人によって自分を確認しているからだ、家族と一緒のときのおれは寂しかった、家族と一緒のおれも、おれ自身には違いなかったが、あの女と一緒のときのおれの方が、本当のおれだと思う、疲れないとか楽だとか興奮するとかそういうことじゃない、今のおれが、おれとしてフィットしているんだ、おれみたいにこんな変わった恥ずかしいことをしているのは、世界の六十億の人間の中でたった一人かも知れない、でもこの今のおれが、おれなんだ、他の六十億の人間なんかどうでもいい、あの女とこうして暮らすのは、寂しくないんだよ。

他人を通して自分が自分であると納得できる時、人は寂しくない。そして自分が自分であると確認するのは他人を通してのみである。

村上龍は「人間は他人によって自分を確認している」ということを「愛と幻想のファシズム」でも言っている。(【関連記事】「愛と幻想のファシズム」最高に痺れる危険な小説

「愛と幻想のファシズム」の中で特に印象に残っているのが主人公トウジの邪魔者を発狂させる手伝いをしていた片山医師の以下のセリフ。

「生まれついて不完全な人間は、様々なものでその不完全さをカバーしようとするわけでね、自分というものもとても不確かなものなんだ、例えばね、自分のありとあらゆる知り合い、肉親、会社の上司、仲間から、ある日突然お前なんか知らないと言われてごらん、百パーセント、発狂するよ、他人から確認されて、自分が自分だといつもわかるだけなんだ、だから、確認を失った人々、自ら確認を拒否した人々、つまり狂人の中にいると、常に確認が必要な我々が逆に不自然極まるようにも思えてくるわけだ、そして、ある人が何によって、自分を確認しているのかを他人が理解するのはひどくむずかしい」

「ライン」ではこの物語の最後、ユウコはこう思う。

私には他人というものがいない。

ユウコは0歳児の時に親に捨てられ、施設から”おじさん”に引き取られ性的虐待を受けて育った。ラインが見える能力が発覚してからは精神病院に閉じ込められた。病院から出ている時も、ろうそくのみで照らされたマンションの一室に住んでいる。

他人と自分を比べることができないユウコは自分を確認することができない。

寂しくない状態がわからないから、寂しいという状態もわからない。

一方、他の登場人物は、この物語で常にコミュニケーションの連鎖の中、他人を通して自分を確認していた。

この物語では現代社会における繋がり(ライン)の中で人がどう自分を自分と確認しながら生きているのかということを、確認を失ったユウコと対比して描いているのではないだろうか。

 

小説「ライン」が伝える現代社会の人の繋がり

この小説で村上龍は何を描きたかったのだろうか。

あとがきに村上龍はこう書いている。

八十年代に「トパーズ」という短編集を書いたとき、登場するSM風俗嬢たちは日本的共同体の中で特殊な人間たちだった。
(中略)
「トパーズ」のSM風俗嬢たちが抱えていた精神的な空洞は、今やごく当たり前のものしてあらゆる社会的階層に見られるものである。そのような人々は言葉を持っていない。近代化を終えた現代の日本を被う寂しさを有史以来初めてのもので、今までの言葉と文脈では表現できないのだ。
(中略)
文学は言葉を持たない人々の上に君臨するものではないが、彼らの空洞をただなぞるものではない。文学は想像力を駆使し、物語の構造を借りて、彼らの言葉を翻訳する。

村上龍は現代人が持つ、精神的な空洞、寂しさに小説という表現方法を持って言葉を与え、翻訳したのだ。

この小説「ライン」のキーワードは「寂しさ」「悩み」「狂い」「繋がり」だと思う。

ある時大学の講義で聞いたのだが、地球上の人間は皆「6次の隔たり」で繋がっているという。これはどういうことからというと、自分から見て友達(知り合い)を「1次隔たり」、友達の友達は自分から見て「2次の隔たり」で、つまり、日本にいる自分から見ても友達の友達の友達の友達の友達の友達以内に、アフリカの奥地に住む原住民だろうが、ドナルドトランプだろうがいるということである。それほどまでに人間社会のネットワークは狭い。SNSなどで人との繋がりがより分かり易く可視化された今、「そことそこが繋がってたんだ!」なんてことは誰でも体験したことがあると思う。

(最近は3.5次の隔たりまで縮まってるらしいけど…→【外部リンク】3.5人たどれば誰とでもつながれる、「六次の隔たり」が「3.5次の隔たり」に縮まっていることが判明

そんな狭いネットワークの中で俺らはすぐ隣にいる他人と交差しながら生きている。これは人類が生まれてから変わらない事実だ。こういった本質的なテーマは常にリアリティのある作品の根底に流れている。

(このテーマを主題として押し出している素晴らしい映画「クラッシュ」というものがあるので興味のある方はこちらもチェケラ→【関連記事】映画「クラッシュ」衝突を通して描かれる人間社会のネットワーク

そして、人と人との出会いは必然だ。完全なランダムで人と人は出会っているわけではない。出会いに意味があるかどうかは、意味を見出すかどうかの話で人によって変わってくるが、そこには客観的事実として法則はあると言えると思う。その一つとして似た者同士は引き寄せ合う、というものだ。性質や在り方がどこかで似ている人間同士は自然と引き寄せ合い、出会うべくして出会うことになる。

村上龍は常にリアルなことしか書かない。この小説でもそんな本質的な事実が常に背景として存在している。

「寂しさ」「悩み」「狂い」を抱えたこの小説の登場人物は、それらの点で共通している。過去にトラウマを抱えていたりして、社会の閉塞感の中でその呪縛から抜け出せず、社会と自分を切り裂きたいという切実な思いが交差して空回りしている。

停滞した人間は、やがて堕ちていく。停滞は堕ちていく過程そのものだ。

諸行無常のこの世では同じ場所、同じ時間、同じ自分で居続けることは出来ないし、ありえない。人間を含めたこの世は常に変化し、求められているものはポジティブな変化、つまり成長だ。ある変化がポジティブかどうかは当人の感覚でしかわからないが、本能レベルの事象に関してはそれがポジティブかネガティブかに対するセンサーは同じ人間としてだいたい皆共通したものを持っている。

そして、ポジティブな感情(幸せ)を感じるのは、差に対してだ。在るべき姿や状態に到達し差を満たした時に人は幸せや充足感を得る。人は同じ状況では、慣れ、飽き、腐るようにできる。

つまり、ポジティブに生きるには常に右肩上がりのグラフのように変化していかなければいけない。在るべき姿になったとしても、その地点からは次の在るべき姿が見えるようになる。同じ場所にいると、在るべき姿のグラフとの差が開いていき、それはつまり在るべき姿を基準とした場合、相対的に下落していることになる。

社会の閉塞感の中に閉じ込められ、寂しさと共に停滞し、狂い、堕ちていく「ライン」の登場人物たち。

この記事冒頭に「この小説が描くのは社会の端っこに住む極端な性質を持つ人間だ。」と書いたけど田口ランディが「なぜか自分もこのライン上にいるような気がしてならなかったのだ」と解説にも書いているように、この小説の登場人物と共通するものは現代に生きる人々全員持っているのではないだろうか。

分断されバラバラに閉じ込められた社会には端っこしかない。

普通ではないことを狂っているといい、普通というものがないとしたら、本質的にはみんな狂っていると言えるのかもしれない。あるのは自分と同じような狂いを持つ人々が多数派なのか少数派なのかというだけの違いだけだ。

では、どうやったら閉じ込められ麻痺せずに、社会に対して自分が自分としてコミットしていけるのか。そんなことを考えさせられる小説。

村上龍は現代社会のシステムに対して強い疑問や反抗心を抱えて若い時代を過ごし、それらを文学などの作品という形に昇華し「人間自身とそれを取り巻くシステムの関係性に存在する事実(≒真理)」を社会に突き付けている人物だと思っている。

様々な見方が同時に存在できる中、この小説が突きつけてくる社会と人間に対する事実はかなりエクストリームで暗いので、その事実によって世の中に対する見方が全てネガティブになっていまいそうなほど弱っているときは「ライン」を読むことをお勧めしない。

だが事実は常に、そうあってほしいかどうかとは関係なく、そこに存在する。その中には目を背けたくなるものもあるかもしれないが、ネガティブを知らずして、ポジティブを知ることはできない。

 

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